先日、丹波市市島町にある三ツ塚史跡公園内にある「花しょうぶ園に行ってきました。
訪れたのは午後5時。6月とあって、さすがに日が長い。
この日はここに向かう直前までどんよりと曇っていた空が、急に晴れて、なんだかうれしくなりました。
日の光を浴びて、一面の花しょうぶ。到着した時はそれほど広く感じませんでしたが、近寄っていくと、なかなか壮観。
時間的なこともあり、到着してしばらくはこの景色独り占め状態。
この景色を見ながら、何とはなしに尾形光琳の「燕子花図屏風」を思い起こしておりました。
もともと、尾形光琳は大好きなのですが、最近読んだ本(江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」)に尾形光琳が絵師としてなかなかに苦労していたという話しを読んで、余計に思い出したのかもしれません。
この絵は光琳が絵師として『法橋』に(天皇家から画家にあたえられる位。)叙任された直後に書かれた絵とみられていて、今では国宝なっています。
ですが、当時は画家として注文を取るのも大変だったよう。このデザイン的な屏風がそのまま京都の富裕な商人層に受け入れられるようになったかというと必ずしもそうではなかったのではないかと、この本の筆者は推察しています。
当時の顧客であった富裕層は教養が豊かで、美しい画面構成だけでは物足りなかったのではないか、作品の背景に古典や中国故事のあるものの方が好まれていたそう。
うーん。あの尾形光琳にそんな時代もあったのかと驚いてしまいました。
その後、書かれた絵の中に「八つ橋図屏風」というものがあって
これは物語絵としてはっきり当時の人たち(注文主であるターゲット層)にわかる構成になっています。
燕子花に八つ橋を添えることで伊勢物語の第九段、八つ橋のくだりを当時の人たちに即座に連想させたとか。
この時代から、ターゲット層に合わせて作品を作っていくということが行われていたんだとしみじみ思ったのでした。
私も、燕子花図を真似して写真がとれないものかと、試してはみましたが、そううまくいくものでもないですね。(;^ω^)